けーたのメガネ日記

25歳からの視力矯正。

きゃりーに仕込まれたポップス「学びのプログラム」

先日きゃりーぱみゅぱみゅは5枚目のシングル「にんじゃりばんばん」をリリースした。このポップな楽曲を聴いたとき、私の中ににわかに既視感が生まれた。そしてこの既視感は一体、何だろうと考えてみると、それは「PONPONPON」の出現の時に現れたものと同じであった。

初めてPONPONPONという楽曲を聴いたとき、その楽曲が私にもたらしたのは、新鮮さとノスタルジックな既視感であった。90年代J-POPで培われたポップスの安定感に、クラブミュージック由来の作家性を足した楽曲は、私に新鮮さと懐かしさを一度に与えるものだった。

では「にんじゃりばんばん」が私たちに「PONPONPON」と同じ既視感を与えるとは、構造的にどのような意味を持つだろうか。私はそれをヤスタカによる「学びのプログラム」なのではないかと思った。まず時系列できゃりーの楽曲を追ってみる。

前述のPONPONPONは2011年7月リリース、これは同年8月にリリースされたアルバム「もしもし原宿」の先行シングル的な位置づけ。この曲はいわゆる旧来のポップスにクラブミュージック由来の作家性を加えた楽曲で、それ故に新鮮さと懐かしさを同時に与えてくれた。アルバム「もしもし原宿」それ自体も、やはりそのような作家性によってパッケージングされた楽曲群と言って良い。

2012年1月「つけまつける」リリース。ここでBPMを「もしもし原宿」周辺楽曲の120台後半から140台前半まで引き上げ、四つ打ちは少し鳴りを潜める。よりポップミュージックの様相を呈してくるが、これは従来のポップスを志向しているというよりは何か「新しいポップス」を志向しているようだ。

同年4月「CANDY CANDY」リリース。BPMを130まで下げ、90年代J-POP、まるでYUKIの楽曲かのような従来の安定したポップス。前曲のつけまつけるや「きゃりーanan」といった新しいポップス志向と、このCANDY CANDYやPONPONPONという従来のポップスを一つのパッケージとして同年5月、アルバム「ぱみゅぱみゅレボリューション」リリース。ここで従来のポップスとクラブミュージックの作家性という対立構図がある種の完成系として提案され、一つの山場を迎える。

同年10月「ファッションモンスター」をリリース。この楽曲でヤスタカは志向してきた「新しいポップス」に、従来のポップスを融合させ、新しくも古くもない楽曲へと進化させるという荒業をやってのけたように見える。私は初めてこの曲を聴いたとき、これが新しいのか古いのか、全くわからなかった。

それが整理されたのが次の「キミに100パーセント/ふりそでーしょん」のリリース。「キミに100パーセント」であざといほどに従来のポップスを丁寧になぞりながら「ふりそでーしょん」で「新しいポップス」の形を提案したこの「両A面シングル」によってヤスタカはひとまず、一つのアイディアの実装を終えた。この曲はポップスでありながら消費者に「奇妙な違和感」を感じさせることに成功している。

そして今回のにんじゃりばんばんである。ヤスタカは一つのアイディアを実装し、それを消費者に学習させた後、PONPONPONの場所まで戻ってきた。これはきゃりーに仕込まれた「学びのプログラム」だと私は思う。

これが繰り返されるものなのか、偶然の産物なのかはわからない。しかしヤスタカという作曲家は、これを狙っているのではないかと期待させるような技量の持ち主である。だから私は次の実装、「学びのプログラム」に期待しながら、きゃりーの次のリリースを待っている。

僕たち若者には今、歌う曲もなければ、聴く音楽もない!

俺たちオジさん(オバさん)には今、歌う歌もなければ、聴く歌もない!(富澤 一誠)

こんな記事が上がっていたので、思うことを書き散らかしてみたい。

いつからだろうか、音楽を聴かなくなった。正確に言えば、流行の音楽に触れる機会がなくなった。僕のitunesには、もう長い間、変化が無い。聴くものと言えばネットレーベルが新しくリリースした楽曲や、一時的に流行したガンナムスタイル、あるいはsoundcloudやyoutubeで、ふと聴きたくなって検索した曲ぐらいだ。AKB48やジャニーズ、K-POPの「流行」に乗れなかった自分は、そういった「itunesに入れても名前がつかないような楽曲」ばかりを、ここ数年聴いてきた。

そしてふと思う。なんでこんなことになっちまったんだろう?

思えば小学生の頃、みんながモーニング娘。を聴いていた。中学に入り宇多田ヒカル椎名林檎バンプオブチキンやアジアンカンフージェネレーションなんかが流行りだした。それとは別の流れとして、ミスチルやサザン、中島みゆきやユーミンなんかにも一定の人気があった。つまりみんなが「音楽」という共通の楽しみを享受することができていた。

でもその流れは2000年代後半、youtubeニコニコ動画が出てきたあたりから、あっという間に途絶えてしまったように感じる。僕は当時から不思議に思っていた。インターネットという革命的なインフラがあり、今までと違うメディアが出てきたにも関わらず、なんでこんなにも「みんながバラバラの音楽しか楽しめなくなってしまった」んだろう。

僕がテレビを見る時間は、昔からそれほど変わってはいない。どちらかというと、あまり見ないことの方が多いという意味で。でもインターネットからは「共通の話題にあがる音楽」というものが、どんどん消失していったように思う。特に初音ミクが出てきたあたりから、そういう傾向が顕著だ。

僕は音楽の業界のことはわからないし、単なるいちリスナーに過ぎないが、最近のテレビ番組は最新の音楽を取り上げなくなったのかなと思っていた。だから記事で言っているような「オジさんの聴く歌がない」どころか、オジさんの聴く音楽ばかりなのだと思っていた。だって「音楽」を聴きたいリスナーがAKB48やジャニーズを聴くだろうか。そういう意味では「オジさんが聴かせたい音楽」がテレビでは流れているのかもしれない。

そんな中で、ももクロきゃりーぱみゅぱみゅ、パフュームなんかは輝いて見える。去年の紅白を見ていても、この三者のステージはとても気合が入っていて、それこそカウンターカルチャーの急先鋒という感じがした。

つい先日、まだ高校生の男の子と話す機会があって、最近どんな音楽を聴いてるの?ときいてみたら、ミスチルという答えが返ってきて驚愕した。それも全然、新しい楽曲なんかではなくって、僕が当時、リアルタイムだったような古い楽曲ばかりだ。

なぜ、そんな古いのを聴いてるの?最近はどんなアーティストが出てきているの?と立て続けに質問したが、彼の回答は「最近は新しいアーティストは出てきていないし、別に古いものを聴こうと意識したことは無い」というものだった。

改めて思う。なんでこんなことになっちまったんだろう?

僕は無責任な、いちリスナーだ。だから別にこれについて評論したり、何か生産的な提案をすることはできない。しかし「今の若者が共通の話題にできるミュージシャンが10年前から変わらない」という事実は、とても悲しいことのように思う。

そしてこれは僕の主観だが「若者が流行の音楽の話で盛り上がれること」は、雇用促進や教育改革などという具体的政策なんかよりも、よほど若者を元気付け、勇気付け、頑張らせることに効果があると思ったりもする。

だからオジさん、僕たちに聴かせたい音楽の話ではなく、僕たちが聴きたい音楽の話をしてください。それが僕たちに希望を与えるんです。よろしくお願いいたします。

25歳で初めてメガネをかけた話。

僕は1987年に生まれた。現在25歳になる。そして、今までメガネやコンタクトをかけたことがなかった。漠然と目が悪いのは知っていたけれど「まあ目が悪いくらいでそんなに世界は変わらないだろう」と、なんとなく思っていた。

ところが昨日、友人達と雑談していて「おまえがウザイのは目つきが悪いからだ」という話になり、メガネを買ってくれることになった。僕は「いいよそんなの、めんどくさい」と断っていたのだけれど、話の流れで近所のメガネ屋さんに検査だけでも受けに行くことにした。すると検査してくれた店員さんに「え、今までメガネやコンタクトを全くされてこなかったんですか?」と驚かれ、すぐにメガネを勧められた。

どうやら僕の目は普通に考えたら日常生活を送れないほど悪く、しかも酷い乱視だということだった。今まで普通に生活(働いたりはしていないので、社会人ではないのだけれど)していた僕には全く実感がなかったが、検査についてきた友人達は口々に「どうせそんなことだろうと思った」などと言っていた。

結局、友人達に言われるがまま、メガネを選び、買ってもらったのだが、それをかけた瞬間、驚いた。つまり世界は僕が想像していたより遥かに美しかったのだ。

 

僕は今まで、写真のような美しい世界に漠然と憧れていた。僕の友達、石田祐規は写真を撮っていて、彼のブログにはそれが毎日アップされるのだが、これらの写真のように世界がキラキラして見えたら、どんなに美しく楽しいだろう、などと思っていた。しかしメガネをかけてみたら、何と世界は、だいたいそんな風に見えた。

(もちろん、それでも彼の写真は好きなのだけれど)

そして僕は昨日まで「外出なんて面倒くさい、移動なんて概念なくなれば良いのに」などと思っていた。そんなモノグサ人間だったにも関わらず、なんと今日は半日もかけて渋谷ー青山ー六本木ー恵比寿ー代官山あたりを散歩してしまった。あまりにも景色が違って見えるので、まるでヴァーチャル・リアリティの世界に居るようで、歩いているだけで楽しくなってきてしまうのだ。(メガネのフレームが、この気分を加速させる)

 

そんな風に歩いていて、今までと僕の認識がどう変わったのか、具体的に考えてみると、大きく別けて三つの変化があることに気がついた。

一つ目は色。僕は今まで、色というのは「パステルで塗られた平面」のようなものだと思っていた。あらゆるカラフルな物体は、僕にとってパステルカラーで雑に塗り分けられた平面のように見えていた。もちろん顔を近づければ、それぞれの色は見えるのだが、遠くから見ると、それらの境界は常に揺らぎを含んでいた。しかしメガネをかけてみると、カラフルなものは文字通り色がたくさんあって、それぞれの色は遠目に見ても、きちんと主張し合い、隣り合っていた。

二つ目は光。今まで立体や光源は僕にとって「シミ」と認識されていた。何か出っ張ったものがあったり、蛍光灯が連なっている天井があっても、それらは光の拡散に邪魔され角や光源のクッキリしない水溜りのように見えていた。そしてこれも「そういうもの」なのだと思っていた。印象派の絵画は僕に大したインパクトを与えなかった。あるいはガラスに光が反射している時、向こう側など殆ど見えないと思っていた。しかし全くそんなことはなく、僕は「ガラスは光の反射と貫通を同時にできる素晴らしい素材だ」ということに感動した。

そして三つ目。これがとにかく僕を一番、驚かせたのだが、人間の視覚は複数のものを「同時に」認識させる、ということ。僕は今まで、いくつかの物体をそれぞれ別々に認識し、それらを点として俯瞰した状態で捉えなおし、それによってどのように物体が並んでいる空間なのかを認識していた。しかし視覚には、そんな複雑な手続きを踏まなくても、一気に空間を認識させるポテンシャルがあった。とにかくこれには驚いた。余談だが、メガネ屋の店員さんいわく「初めてのメガネは度が強すぎると、認識する情報量が多すぎて脳に過負荷がかかるので、リハビリ的に軽いものを作ります」という訳で、僕は視力が0.3くらいになるものにしてもらったのだが、確かにこれが1.0や2.0なんかになった日にはどうなってしまうのだろう、という程の衝撃だった。何しろ「見ようと思っていないところまで認識してしまう」のだ。机の上にある全てのコップや灰皿、ナイフやフォークが全部「ここに存在します」と僕に主張してくる。僕はあまりの情報量の多さに思考が追いつかないような錯覚を覚えた。しかし一方で、この「認識が爆発する感覚」には病み付きで、メガネをかけることは、とても楽しい。

 

そんな訳で、僕は自分の人生をメガネ以前、メガネ以後と区分した上で、以後の日記としてハテダを始めてみることにした。

明日はどんなものを見ようか、今から楽しみで仕方が無い。